『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』翻訳者による序論
松本知己、真野新也、大久保良峻
『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』(王妃シュリーマーラーの師子吼の経典)は、大乗仏教の経典です。
サンスクリット原典は散佚しましたが、漢訳及びチベット語訳が現存し、それぞれの大蔵経に収録されています。
この経典が仏教の伝統の中で独自の発展を示しているのは、平等で寛大な女性観です。
在家信者の女性の威厳と智慧、生きとし生けるものへの心遣いなどを描く一方で、哲学者や教師としての女性の役割も描写しています。
哲学的な観点からこの経典が主として強調するのは、如来蔵(「如来の胎」 。
胎は子宮、或いは胎児の意であり、如来蔵とは、すべての生き物にある、仏となる可能性のこと。 仏性。 )と一乗(ただ一つの教え)の理論です。
サンスクリットの仏教文献での引用と言及の状況から、『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』は、インド全土に急速に普及したと推測されています。 漢訳は二本が現存します。
訳出年代が早いのはグナバドラ(求那跋陀羅、394~468)訳で、英訳はこれに依拠しています。
後にボーディルチ(菩提流志、672~727)も訳出しています。
王妃シュリーマーラーの物語には、簡潔で美しい主題があり、みずみずしい形象と譬喩に彩られています。
菩薩は主要な媒介者であり、人々は菩薩から如来蔵という深遠な教えを受けます。
王妃シュリーマーラーは、未来の仏であり、仏教の教義を信奉しつつ、他を教化します。
両親から(法の)教えを学ぶよう求める手紙を受け取った後、彼女は、ブッダの面前で如来蔵の教理を説示する菩薩になります。
悟りを求める心に目覚め、ブッダを心に念じた彼女は、ブッダに対面して、菩薩の修行を実践したいという希望を述べます。
ブッダから、将来に必ず成仏するという予告を授けられた後、彼女は真実の法の道に入り、菩薩としての実践を始めることになります。
王妃シュリーマーラーは、ブッダの「師子の咆吼」 (師子吼)、すなわち弁論の才を持っていました。
まずは王国の女性を帰依させ、次に仏教徒でない夫を、最後はすべての男性を帰依させます。
シュリーマーラーは、経典では明示されない美貌とか財産といったものではなく、知性と慈悲の心によって賞賛されます。
彼女は、仏典に登場する菩薩がすべてそうであるように、法を説くことに巧みであり、人々を教え導く資質に恵まれています。
王妃シュリーマーラーは、真実の法を説くさい、四つの譬喩を用います。 その第一は大いなる雲です。
これは、生き物に注がれるすべての偉大な功徳の源泉の譬喩です。 第二は大いなる水です。 これは、善い行いを生み出す源泉の譬喩です。 第三は大地です。
これは、法がすべての生き物を支えるように、あらゆる事象の支えとなるものの譬喩です。 第四は、四つの宝物の蔵です。
これは、生き物が受持すべき四種の教えの譬喩です。
この経典は、女性が仏になる可能性について問題提起をすることから、常に仏教学者や註釈者を悩ませてきました。
彼らは、究極的な精神の完成、或いは成仏という概念と、女性であることとが結びつく可能性を受け入れようと試みてきました。
そのような関連性は、複雑な思いとともに考察されてきたのです。
この問題に取り組んだのは、大乗仏教徒、特に、一つの道(一乗)によってすべての者が成仏すると主張する人々です。
彼らの思想によれば、すべての男性と女性は、等しくブッダの性質(仏性)を持っています。
もし女性が、この一生の中で、女性であることを否定することなく、真に仏性を持つことができるとしたら、それは、女性が生き物として、宗教的、精神的、肉体的にも男性より劣らないと暗示するのです。
大乗仏教の文献でよく知られた主題の一つに、女性から男性への変化があります。 これは、文学上、また精神上、女性が菩薩、そして仏になる方法を与えるものです。
他の経典や註釈には、女性を嫌悪することを誓願することで、あるいは、女性として死んだ後に男性に転生することで、性の転換を経験する必要がないと示唆するものもあります。
王妃シュリーマーラーの悟りがいかなる段階のものであるかという学者の論争は、菩薩の理想的なあり方と、女性として成仏するという概念をめぐる仏教徒間の論争を反映しているのかもしれません。
この経典は、全体を通じて、菩薩を(精神的)支柱、受け入れる者、慈悲深い法の母として描き、菩薩について女性的な形象を示しています。
女性が可能性として、あるいは現実的に、仏になることが認められるか否か、という問題についての解答は、出されずに終わります。
勝鬘師子吼一乗大方便方広経
王妃シュリーマーラーの師子吼の教え 一乗の巧みな手立てを教示する包括的な経典。
西暦435年、中央インドの学僧グナバドラがサンスクリット原典から漢訳した─
【217a7】
第1章 如来の真実の法の功徳
このように私は聞きました。
ある時ブッダ(仏)は、[コーサラ国の首都]シュラーヴァスティ(舎衛城)にある祇園精舎に滞在なさっていました。
国王プラセーナジット(波斯匿王)と王妃マッリカー(末利夫人)は、仏教に帰依して間もない頃でした。
彼らは話し合いました。 「私たちの娘のシュリーマーラー(勝鬘)は機敏でとても聡明です。
彼女がブッダにお目にかかれば、きっと仏の教えを理解し、[真理について]疑いを残すことはないでしょう。
いつか手紙を書いて、彼女の信仰心を呼び覚ましてやらなければなりません。」
王妃は言いました。 「今こそその時です。」
そこで王と王妃は、如来の計り知れない功徳を讃える手紙を書き、
チャンディラー(旃提羅)という名の女官を使者として、
[シュリーマーラーが王妃の位についている]アヨーディヤー国(阿踰闍国)に派遣しました。
宮殿に入ると、使者は手紙を差し上げました。
シュリーマーラーは喜んで受け取り、[敬意のしるしとして]手紙を押し戴きました。 手紙を読み、
理解すると、彼女の信仰心はたいへん深くなっていました。
そして、シュリーマーラーは、チャンディラーにむかい、詩によって次のように言いました。
私はブッダの御名を聞きました 世界にまれなる御方 それが真実なら
私はブッダを崇め奉ります
私は、救済のためにこの世に出られた世尊、ブッダに従います ブッダが私を憐れんで、そのお姿を拝見することをお許しになるでしょう
このように心に念じた時、ブッダは空中に現れ あらゆる方向に清浄な光を放ち
比類なく素晴らしい身体を現しました
シュリーマーラーと従者たちは ブッダの御足を押し戴いて礼拝し 真心から
ブッダの功徳を称賛しました
素晴らしい如来の身体はこの世に並ぶものがありません
比類なく、想像が及ばない それゆえに敬礼いたします
如来の身体は尽きることがありません 智慧も同様です
一切の法は[ブッダにおいては]常住ですそれゆえに、我々はブッダに帰依します
心の汚れと身体の四つ(四苦、すなわち生・老・病・死か、或いは身体を構成する四大、すなわち地・水・火・風か。諸説あり)[の過ち]を制圧して
不屈の境地に到達しています それゆえに、法の王に敬礼します
【217b】 知るべき事柄を全て知り
またその智慧からなる身体を自在に統御して すべてを成し遂げる それゆえに、我々は敬礼いたします
[時空の]あらゆる限界を超越した御方を
我々は敬礼いたします 比類なき御方を我々は敬礼いたします 無限の法をお持ちになる御方を
我々は敬礼いたします 思議を超越した境地にある御方を我々は敬礼いたします
[シュリーマーラー] どうか私を憐れみ、お守り下さい
[私の心にある]仏法の種子を生長させて下さい この生涯、そして未来の生涯にわたって どうかブッダよ、常に私を(弟子として)お認めになって下さい
[ブッダ]私は長きにわたってあなたと共にあります
あなたの過去の生涯から教え導いてきました 今また私はあなたを受け入れましょう そして未来の生涯でも同じように
[シュリーマーラー]私は功徳を積んでまいりました
この生涯でも 過去の生涯でも この善行によって どうか私を受け入れて下さい
そうしてシュリーマーラーは、従者たちと共にブッダの御足を押し戴いて礼拝しました。
ブッダは皆の前で彼女に対し、次のような予言をしました。
「あなたが如来の真実の功徳を称賛するという善行を行ったとして、その結果、数え切れないほどの阿僧祇劫(極めて長い時間の単位)において、
あなたは天界(神々の世界)と人間界の王として君臨するでしょう。
それらのどの生涯でも、今そうしているように、あなたは必ず私を見、面前で私を称賛するでしょう。
そして、あなたは数え切れないほど多くの仏を供養し、二万阿僧祇劫を超える時間を経た後、サマンタプラバ(普光)という名の如来・応供(供養、尊敬を受けるに値する存在)・正遍知(完全な悟りの智慧をもつ存在)となるでしょう。
あなたの仏国土には、悪い境界に生を受ける者はなく、老いや病気、衰弱、悩みなどの苦しみを受ける者もないでしょう。
それらの諸悪がないだけでなく、それを意味する言葉すらないでしょう。
あなたの仏国土に住む者は、五欲(五つの感覚器官、眼・耳・鼻・舌・身が、それぞれの対象である色・声・香・味・触に起こす欲望)[が十分に充たされ]、長寿と高い身体能力と美しさを備え、
他の天が作り出した快楽を自在に享受する天(他化自在天)よりもさらに幸福でしょう。
彼らはすべて大乗仏教を信奉する者であり、常に善行を実践する者があなたの国土に集うでしょう。」
王妃シュリーマーラーがこの予言を授けられた時、
無数の天、人やその他の生き物達は皆、彼女の国土に生まれることを願いました。
ブッダは彼らすべてがその国土へ生まれることを予言しました。
第2章 十の自誓の願
その時シュリーマーラーは、[ブッダの]予言を受けると恭しく立ち上がり、十の大いなる自誓の願を立てました。
「
世尊よ。 今より後、悟りの境地に達するまで、
- 1)
私は受けた戒を犯す心を起こしません。
- 2)
私は尊敬すべき先輩の修行者を軽侮する心を起こしません。
- 3)
私は生き物を憎む心を起こしません。
- 4)
私は優れた外見や財産を持つ人々への嫉妬心を起こしません。 【217c】
- 5)
私は生活に困窮していたとしても、吝嗇の心を起こしません。
世尊よ。
今より後、悟りの境地に達するまで、
- 6)
私は自分自身の利益のために財産を貯蓄しません。
何であれ私が得たものは、困窮し、苦しんでいる人々を助けるために役立てます。
- 7)
私は、すべてをおさめとる四つの行(四摂行。
施し・慈悲に充ちた言葉・他を利すること・すべての生き物を善行に導くために協力すること)をすべての生き物のために実践しますが、自分一人のためには行いません。
私はすべての生き物に対し、欲望や倦怠、偏見などを持たずに受け入れます。
- 8)
様々な不運や困難によって、孤独、補囚、病気、苦悩の状態にある生き物を見たら、彼らに平安をもたらすため、一瞬たりとも決して見捨てません。
私の善行の功徳によって、彼らに利益を与え、苦痛から解放します。
そうしてはじめて、私は彼らから離れます。
- 9)
獣を狩り、家畜とし、屠殺する者、あるいは戒を犯す他の行為に関わる者を見たら、私は決して彼らを見捨てません。
私が[生き物を教え導く]力を得たとしたら、どこで出会おうと、力をもって抑えとどめる(折伏)べき者は抑えとどめ、救い取る(摂受)べき者は救い取ります。
なぜでしょうか。
彼らを抑えとどめ、または救い取ることによって、正しい法がこの世に永く存在し続けるからです。
正しい法が永続すれば、天界や人界に住む者は繁栄し、悪い境界に住む者は数を減らすことでしょう。
そして、如来が転ずる法輪は、再び転じられることでしょう。
こうした利益のために、私は生き物を救い、また[生き物を教え導くことを]放棄しないのです。
世尊よ。
今より後、悟りの境地に達するまで、
- 10)
私が授けられた真実の法を、決して忘れません。
なぜでしょうか。
法を忘れる者は、大乗を忘れます。
大乗を忘れる者は、修行の完成を忘れます。 修行の完成を忘れる者は、大乗を求めることがありません。
菩薩が大乗に確信を持たなければ、真実の法を受け入れよう(摂受正法)と望むことができません。
各々が思いのままに振る舞えば、平凡な人々の境地を超えることはないでしょう。
このように、[人々の]はかり知れないほど大きな過ちと、正しい法を受け入れる菩薩及び偉大な存在(摩訶薩)の福徳と利益が、私には見えます。
ですから私は、これら大いなる自誓の願を自らのものとするのです。
法の主、世尊が眼前で証明して下さいました。
あなた様は私の証人です。
しかしながら、世尊、ブッダが現に[私の宣言を]証明して下さったとしても、生き物の善行はうわべだけのものです。
中には疑い深く、 これらの十の自誓の願を守ることが極めて困難な者もおります。
そのような者は、長い間、よこしまな行為に没頭し、不幸せな状態です。
彼らに平安をもたらすため、私は、あなた様の眼前で、この誓願に偽りのないことを明らかにいたします。
私はこれらの十の大いなる自誓の願にのっとり、述べたとおりに実践いたします。
もしそれが真実なら、これら十の誓いの威力で、ここに集まっている人々の上に、天の花が空から雨のように降り、天の音声が鳴り響くでしょう。」
シュリーマーラーがこのように言うやいなや、天の花が空から雨のように降りそそぎ、天の音声が鳴り響きました。
「そのとおりです。
そのとおりです。
あなたの言ったことは真実です。 虚妄ではありません。」
【218a】驚くべき天の花と音声を見聞して、集まっていた人々は皆、もはや疑いを捨て去りました。
彼らはこの上なく歓喜し、 「私たちは王妃シュリーマーラーのお供をし、王妃と共に修行をさせていただきたいのです。」
と口々に叫びました。
ブッダは
[王妃シュリーマーラーと共にいたいという]彼らの願いがかなうであろう
と予言しました。
第3章 三つの大いなる誓願
その時シュリーマーラーは、再びブッダの眼前で、三つの大いなる誓願を立てました。 「『私の真摯な願いの力によって、数え切れないほど多くの生き物に平安をもたらしたまえ。
善行による功徳で、生を受け続ける限り、私に、真実の法の智慧を獲得させたまえ。 』これが第一の大いなる誓願です。
『真実の法の智慧を得たら、全ての生き物のために、私に、倦むことなく[法の]教えを説かせたまえ。 』これが第二の大いなる誓願です。
『真実の法を受け入れるとき、私に、身体と、生命と、財産とを捨て去って、真実の法を護持させたまえ。
』これが第三の大いなる誓願です。」
その時世尊はシュリーマーラーにお告げになりました。 「その三つの大いなる誓願について説明しましょう。
すべて形のあるものは空間に含まれるように、そのようにガンジス川の砂の数ほどある菩薩の誓願も、すべて三つの大いなる誓願に含まれます。
これら三つの誓願は真理であり、しかもその意義は広大です。」
第4章 真実の法を受け入れること
その時王妃シュリーマーラーはブッダにこう申し上げました。
「私はブッダのお力を借りて、[真実の法の理によって]支えられた大いなる誓願が真実であり、誤りのないことを説明したく存じます。」
ブッダはシュリーマーラーに
「望みのままに説明してごらんなさい。」 とおっしゃいました。
シュリーマーラーはブッダに申し上げました。
「菩薩の、ガンジス川の砂ほども多い諸々の誓願は、すべて『真実の法を受け入れる』(摂受正法)という唯一の大いなる誓願に含まれるのです。
真実の法を受け入れることは、真に大いなる誓願です。」
ブッダはシュリーマーラーを称賛しました。 「素晴らしい。
素晴らしい。 あなたの智慧と説明の仕方は、それぞれ非常に深遠であり、巧妙です。」
あなたは既に長い間、善行を重ね、福徳を積んできました。 未来世において、そのような善行を重ねる者は、あなたの言わんとするところを理解するでしょう。
真実の法を受け入れることに関するあなたの説明は、過去・現在・未来のブッダが既に説き、今説いていて、未来に説くであろうものです。
無上の完全な悟りを得ている私もまた、真実の法を受け入れることについて説くのです。 私は、真実の法を受け入れることには限りない功徳があると説明します。
如来の智慧と弁舌の才にもまた際限がありません。 なぜでしょうか。 真実の法を受け入れることには、大いなる功徳と利益があるからです。」
王妃シュリーマーラーはブッダに申し上げました。 「さらに、ブッダのお力を借りて、私は、真実の法を受け入れること、その広大な意義をさらに説明したく存じます。」
ブッダは
「どうぞ、説明なさい。」 とおっしゃいました。
1.はかりしれない
A.大いなる雲のように
シュリーマーラーはブッダに申し上げました。
「真実の法を受け入れることの広大な意義は、はかりしれません。 それはブッダの八万四千の法門からなる教えをすべて含むのです。 【218b】
たとえば、世界の始まりには大いなる雲がわき起こり、多彩な色の雨と種々の宝石を降
らせるように、真実の法を受け入れることは、はかりしれない福利と善行の功徳をもたらすのです。
B.大いなる水のように
世尊よ。
世界の始まりには、三千の大世界(三千大千世界)と四百億種の大陸が、大いなる水から生み出されます。
同様に、大乗のはかりしれない世界、菩薩の超自然的な力、すべての世俗内の世界における平安と幸福、そこでの自在な能力、そして世俗を超越した世界における平安などは、
世界が始まって以来、天界や人界の住人が経験したことのないものです。 それらは、全て真実の法を受け入れることから生み出されるのです。
C.大地、「支える者」 のように
それだけでなく、真実の法を受け入れることは、四つの重荷を支える大地に似ています。 この四つとはなんでしょうか。
それは、大いなる海、山々、草木、そして生き物です。
同様に、その大地のように、真実の法を受け入れる善男子・善女人は、大地を築き上げ、四つの責務を担います。 この四つとはなんでしょうか。
- 1)
善い友人から離れているため、[法を]聞いたことがなく、或いは法を知らない者に対しては、[善男子・善女人は]人・天の世界における善行を積むよう助言し、[修行に入るよう]教え導きます。
- 2)
弟子(声聞。 小乗仏教の教団に属する修行者)になることを求める者には、声聞の教えを授けます。
- 3)
縁覚(一人で悟りを開く者)になることを求める者には、縁覚の教えを授けます。
- 4)[
大乗の行者に]なることを求める者には、大乗の教えを授けます。
これらを、真実の法を受け入れた善男子・善女人が、大地を築き上げ、四つの責務を担うことと呼ぶのです。
それゆえに、世尊よ。
真実の法を受け入れ、大地を築き上げ、四つの責務を担う善男子・善女人は、請われなくともあらゆる生き物の友人になります。
大いなる慈悲によって、彼らはあらゆる生き物を慰めて安楽を与え、同情し、この世の仏法を生み出す母となります。
2.四種の宝物の蔵を持つ大地のように
さらに、真実の法を受け入れることは、大地が四種の宝物の蔵を持つことに似ています。 四種とはなんでしょうか。 それは以下のとおりです。
- 1)
値が付けられないほどの価値がある、
- 2)
最高の価値がある、
- 3)
中程度の価値がある、
- 4)
わずかな価値がある、
これらが、大地が有する四種の宝物の蔵です。
同様に、真実の法を受け入れ、大地を築き上げる善男子・善女人は、四種の最も貴重な宝石、すなわち、生きとし生けるものを手にします。
四種とは何でしょうか。
- 1)
法を聞いたことがなく、或いは法を知らない者たちです。
彼らに対しては、真実の法を受け入れた善男子・善女人は、人・天の世界における功徳と善行を与えます。
- 2)
声聞になることを求める者には、声聞の教えを与えます。
- 3)
縁覚になることを求める者には、縁覚の教えを与えます。
- 4)
大乗の行者になることを求める者には、大乗の教えを与えます。
それゆえに、大いなる宝石、すなわち、生きとし生けるものを手にする善男子・善女人は、真実の法を受け入れることによって、非常に稀なる功徳を得るのです。
世尊よ。
大いなる宝物の蔵とは、真実の法を受け入れることなのです。
3.真実の法そのものと同義である
世尊よ。
『真実の法を受け入れる』とは、真実の法[それ自体]と、真実の法を受け入れることとは異ならないという意味です。
真実の法は、真実の法を受け入れることと同義です。
4.修行の完成と同義である
【218c】
世尊よ。 修行の完成は、真実の法を受け入れることと相違しません。
真実の法を受け入れることは、修行の完成と同義です。 なぜでしょうか。
- 1)
真実の法を受け入れる善男子・善女人は、施し(布施)によって教化すべき者には、自分自身の身体や手足さえも布施します。
彼ら[生き物達]の、施しをしようとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、布施の完成と呼ばれます。
- 2)
善男子・善女人は、戒によって教化すべき者には、六つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)を守り、身体・言語・精神の行いを清浄なものとし、身体の四つの所作[步くこと・立っていること・座ること・横たわること]を正すことを教えます。
彼ら[生き物達]の、戒を保持しようとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、戒の完成と呼ばれます。
- 3)
善男子・善女人は、忍耐(忍辱)によって教化すべき者には、憎しみを持たないこと、最高の忍耐と、感情を表さない仕方を教えます。
彼ら[生き物達]の、忍耐しようとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、忍辱の完成と呼ばれます。
- 4)
善男子・善女人は、粘り強くやりぬくこと(精進)によって教化すべき者には、怠惰になることではなく、[実践への]意欲を教えます。
最高の努力と、四つの身体の所作を正すことです。
彼ら[生き物達]の、粘り強くやりぬこうとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、精進の完成と呼ばれます。
- 5)
善男子・善女人は、瞑想(禅定)によって教化すべき者には、心を落ち着かせること、外界に乱されない注意深さと、長い間にわたって自らの言動を忘れないことを教えます。
彼ら[生き物達]の、瞑想しようとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、禅定の完成と呼ばれます。
-
6)
善男子・善女人は、科学や技芸において最高の境地にまで達するための智慧によって教化すべき者には、物事の意味を問われれば、恐れることなく、すべての理論や技術を教えます。
彼ら[生き物達]の、智慧によって最高の境地に達しようとする意志を守ることによって、善男子・善女人は教え導くのです。
その者達が教化されて真実の法にとどまるようになった時が、智慧の完成と呼ばれます。
このようにして、世尊よ。
修行の完成は、真実の法を受け入れることと異なりません。
真実の法を受け入れることは、修行の完成と同義です。
世尊よ。
今またあなた様のお力を借りて、さらに[真実の法の]広大な意義を説明したく存じます。
」
ブッダは、「
よろしい。
」
とおっしゃいました。
[真実の法を受け入れる者と同義である]
シュリーマーラーはブッダに申し上げました。
「真実の法を受け入れるということは、真実の法を受け入れることが、真実の法を受け入れる者に異ならないことを意味します。
真実の法を受け入れる善男子・善女人は、真実の法を受け入れることと同義です。
なぜでしょうか。
真実の法を受け入れる善男子・善女人は、真実の法を受け入れるために、三つのものを捨て去るからです。 【219a】 三つとはなんでしょうか。
それは、身体、生命及び財産です。
善男子・善女人が身体を捨て去ると、彼らは生と死の繰り返し(輪廻)の最後の段階に来たのと同じことになります。
老いや病気、死から離れると、もはや破壊することのできない、変化することのない、はかりしれない功徳を持つ如来の法の身体(法身)を得るのです。
彼らが生命を捨て去ると、生と死の繰り返しの最後の段階に来たのと同じことになります。
最終的に死から離れると、彼らは際限のない、永遠の、はかりしれない功徳を得、深遠なブッダの法を深く理解するのです。
彼らが財産を捨て去ると、生と死の繰り返しの最後の段階に来たのと同じことになります。
尽きることのない、減らすことのできない、究極的に永遠で、はかりしれない、完全な功徳を得ます。
それらはすべての生き物が持っていないものであるため、彼らから素晴らしい供養を受けるのです。
世尊よ。
これら三つのもの(身体、生命及び財産)を捨て去り、真実の法を受け入れた善男子・善女人は、常にすべてのブッダから、[将来成仏するであろうという]予言を受け、全ての生き物から尊敬されるのです。
さらに、世尊よ。
仏法が滅亡しようとしている時期に、[教団の四種の構成員](男性の出家修行者・女性の出家修行者・男性の在家信者・女性の在家信者)が、互いに派閥を形成し、対立して[教団の]破壊や離散の原因を作っている時に、曲解せず、欺かず、
不正確な物言いをせずに真実の法を受け入れる善男子・善女人は、真実の法を愛し、受け入れるでしょう。
彼らは仏法を共有する友人らの中に入って行きます。
それによって、すべてのブッダから、[将来成仏するであろうという]予言を必ず受けることでしょう。
世尊よ。 私は、真実の法を受け入れることが大いなる力を有すると理解しております。
それは、あなた様が真理を見通す眼であり、真理の智慧であり、法の源であり、すべてを深く理解なさっていて、真実の法のよりどころであり、またすべてを知見なさっているからです。」
その時、世尊は、シュリーマーラーが真実の法を受け入れることの大いなる力について説明したのを喜ばしく思われました。
[ブッダはおっしゃいました。 ] 「
シュリーマーラーよ。
あなたが話したことは正しい。
真実の法を受け入れることの大いなる力は、ちょうど、強い男が誰かの身体にほんの少し触れただけでもたいへんな苦痛を与えるようなものです。
同様に、シュリーマーラーよ。
ほんの少し真実の法を受け入れるだけでも、悪魔には苦悩を与えるのです。
ほんの少しでも真実の法を受け入れることと同じ程度に悪魔に苦悩を与えることができる善法を、私は他に一つも見たことがありません。
また、牛の王は、その容姿はならぶ者がなく、他のすべての牛より優れています。
同様に、大乗の真実の法をほんの少しだけでも受け入れることは、その広大さゆえに、二乗(声聞乗と縁覚乗)のすべての善行よりも優れているのです。
また、須弥山の荘厳なありさまは他に類例がなく、他のすべての山々より優れています。
同様に、大乗において、身体、生命、財産を捨て去ること、慈悲の心をもって真実の法を受け入れること[の功徳]は、身体、生命、
財産を捨て去ることなく、単に大乗の善行に入ること[の功徳]よりも優れています。
その広大さゆえに、二乗よりも優れているのはもちろんです。
このようにして、シュリーマーラーよ。
真実の法を受け入れることをもって、皆に[この教えを]説明し、教え、改心させ、[法を]確信させなさい。 【219b】
それゆえに、シュリーマーラーよ。
真実の法を受け入れることには、これらの大いなる利益、大いなる福徳、大いなる果報があります。
シュリーマーラーよ。
たとえ私が、数え切れないほど長い歳月にわたって、真実の法を受け入れることの功徳と利益を説いたとしても、[それを説き]尽くすことはないでしょう。
それゆえに、真実の法を受け入れることには、はかりしれない、無限の功徳があるのです。」
第5章 一乗
ブッダは王妃シュリーマーラーにおっしゃいました。 「さあ、すべてのブッダが説いた真実の法を受け入れることについて、さらに詳しく説明してごらんなさい。」
王妃シュリーマーラーはブッダに申し上げました。 「承知いたしました。
世尊よ。 お勧めに従い、説明いたします。」
それから、彼女は次のように申し上げました。 「
世尊よ。 真実の法を受け入れることは、大乗[を受け入れること]です。 なぜでしょうか。
大乗は、世俗的な世界における善行と、世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、つまり、すべての善行を生み出すからです。
世尊よ。
八つの大いなる川がアナバタプタ湖(阿耨大池)に源を発するように、そのように世俗的な世界における善行と、世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、
つまり、すべての善行は、大乗から現れ出るのです。
世尊よ。
また、全ての種子は大地をよりどころとして[のみ]生長することができるように、そのように、世俗的な世界における善行と、
世俗を超えた声聞や縁覚の境地における善行、つまり、すべての善行は、大乗をよりどころとして[のみ]拡大することができるのです。
それゆえに、世尊よ。
大乗に安住し、大乗を受け入れること、これは二乗に安住し、世俗的な世界における善行と、世俗を超えた二乗(声聞と縁覚)の境地における善行、
つまり、すべての善行を受け入れることと同義なのです。
世尊が説かれる六つのよりどころとはなんでしょうか。
それらは、
- 1)
真実の法の存続、
- 2)
真実の法の滅亡、
- 3)
波羅提木叉(戒の根本条文)、
- 4)
比尼(律。 教団の規則)、
- 5)
出家、
- 6)
戒を受けること(出家修行者が持つべき戒を受けること)
です。
世尊は大乗のためにこれら6つのよりどころをお説きになっています。 なぜでしょうか。
真実の法の存続は、大乗のために説かれるからです。 大乗の存続は、真実の法の存続です。 真実の法の滅亡も、大乗のために説かれます。
大乗の滅亡は、真実の法の滅亡です。
波羅提木叉と比尼は、名称は違いますが、その意義は同じです。
比尼は、大乗の修行者が学習します。 なぜでしょうか。 修行者が出家して戒を受けるのは、ブッダをよりどころとするからです。
それゆえに、大乗での行為のあり方、すなわち戒[の完成]を定めるのは、出家と受戒について定める比尼なのです。
したがって、阿羅漢(小乗仏教の出家修行者で最高位に達した者)には、[大乗と同じ意味での]出家や受戒はありません。
なぜでしょうか。 阿羅漢が出家して受戒するのは、如来をよりどころとするからです。
ブッダに帰依することを求める阿羅漢は、恐怖を抱いています。 なぜでしょうか。
阿羅漢は、全ての事象の原因となる力に恐怖しながら過ごしています。
それは、あたかも剣を手にした人がやって来て、今にも彼に切りつけようとしているような状態です。 それゆえに、阿羅漢には究極の幸福はありません。
なぜでしょうか。
世尊よ。
自らが[最終的な]よりどころである者は、よりどころを探し求めることがありません。
よりどころがなく、あれやこれやに恐れている者は、恐怖ゆえによりどころを探し求めます。
そのように、恐れを抱いている阿羅漢は、恐怖ゆえに如来に帰依するのです。 【219c】
世尊よ。 阿羅漢と縁覚は恐怖しています。
阿羅漢と縁覚には、生と死の繰り返し(輪廻)の原因が残っているため、生を受け続けます。
彼らは自らを清浄にする実践をいまだ成し遂げることはなく、不浄な部分が残っています。
彼らの修行が究極的なものではないため、彼らには、なすべきことがまだあります。
彼らは[最終的な段階に]達していないので、断ずべき煩悩がまだあります。 それらが断ぜられていないので、涅槃の境地からはほど遠いのです。
なぜでしょうか。
如来・応供・正遍知だけが、すべての功徳をそなえた最終的な涅槃を得るからです。 阿羅漢と縁覚とには、すべての功徳はそなわっていません。
彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるもの[に過ぎません]。
如来のみが最終的な涅槃を得、はかりしれない功徳をそなえているので、阿羅漢と縁覚の涅槃は、思慮しうる功徳をそなえているにすぎません。
彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるものです。
如来のみが最終的な涅槃を得、断滅すべき過ちはすべて断滅し、このうえなく清浄です。
阿羅漢と縁覚にはまだ過失が残り、完全に清浄ではありません。 彼らが涅槃を得たといわれることがありますが、これはブッダの巧みな手立てによるもの[に過ぎません]。
如来のみが最終的な涅槃を得、すべての生き物から尊崇され、阿羅漢、縁覚及び菩薩の境地を超越しています。
それゆえに、阿羅漢と縁覚は涅槃の境地からはほど遠いのです。
阿羅漢と縁覚が解脱を求めて瞑想し、四つの智慧を持ち、究極的に安息な境地を得た、といわれることがありますが、これもまた如来の巧みな手立てであり、不完全な意義として説示されます。
なぜでしょうか。 二種の死があるからです。 二種の死とはなんでしょうか。
通常の死(分段死、肉体を持つ者の死)と、不可思議な、変化する性質を持つ死(不思議変易死、心によって作られた身体を持つ者の死)です。
通常の死は、虚偽の世界に生きる者の死です。
不可思議な、変化する性質を持つ死は、阿羅漢や縁覚、大いなる力を有する菩薩など、心によって作られた身体を持つ者が、最高の悟りの境地に達するまで受けることになる死です。
二種の死のうち、阿羅漢と縁覚が、『すでに生は尽きた』といわれる知識を得るのは、通常の死についてです。
まだ残りのある不完全な涅槃を得たことで、『聖なる修行は完全に成し遂げられた』といわれます。
過失や煩悩を断滅したことから、『実践は完成した』といわれます。
その実践とは、一般の人、天、そして七種の修行者(小乗仏教の最高の位に達していない修行者)には行うことができないものです。
阿羅漢と縁覚は、煩悩を断滅すると再び生を受けることがないので、『再び生を受けない』といわれます。
これは、彼らがすべての煩悩を断滅し、すべての生を尽くしたというわけではありません。 【220a】 なぜでしょうか。
阿羅漢と縁覚には断滅することのできない煩悩が存在するからです。
二種の煩悩が存在します。 二種とはなんでしょうか。
潜在的な煩悩(住地煩悩)と、顕在的な煩悩(起煩悩)です。 潜在的な煩悩には四種あります。 それらは、
- 1)
視覚に関する欲望の領域(見一処住地)、
- 2)
感覚的な快楽への欲望の領域(欲愛住地)、
- 3)
物質への欲望の領域(色愛住地)、
- 4)
存在への欲望の領域(有愛住地)、
です。 これら四つ[の潜在的な煩悩]によって、すべての顕在的な煩悩が存在します。
顕在的、とは、瞬間的に顕在化するということであり、瞬間的な心に対応して顕在化します。
世尊よ。
心は、始まりを知ることができないほど遠い過去(無始)から存在する根源的な無知(無明)とは[同じようには]対応しません。
世尊よ。
これら四つの潜在的な煩悩の力は、すべての顕在的な煩悩の基礎となるものですが、無明の領域[の力]に対すると、計算、比較、計量という点でも、類似という点でも、まったく比べものになりません。
世尊よ。 無明の領域はなんと強大な力を持っているのでしょう。
無明の領域の力は、第四の存在への欲望の領域に代表される他の領域よりもはるかに強大です。
無明の領域の力は、たとえば悪魔波旬が、容姿、力、長寿、従者などにおいて、他化自在天よりも優れ、また強大であるようなものです。
無明の領域の力は、他の四つの領域よりもはるかに強大です。
これは、ガンジス川の砂よりも多い顕在的な煩悩の基礎となり、四種の煩悩を存在させ続けます。
阿羅漢と縁覚の智慧は、それを断滅することができません。 そうです。
世尊よ。 無明の領域は極めて強大です。
また世尊よ。 生存への執着を間接的な原因として、汚れた行いを直接的な原因として、三種の存在が生じます。
それと同じように、世尊よ。
阿羅漢と縁覚と、大いなる力を持つ菩薩の、三種の心によって生ずる身体(三種意生身)は、無明の領域を間接的な原因として、清浄な行為を直接的な原因として生じます。
これら三つの段階(阿羅漢、縁覚、及び菩薩)において、三種の心によって作られた身体と清浄な行為は、潜在的な無明の領域を原因として生じます。
無明の領域は、すべての事象の原因となり、原因とならないということはありません。
したがって、三種の心によって生じた身体と清浄な行為は、無明の領域を原因とするのです。
世尊よ。
このように、第四の存在への欲望の領域によって代表される他の領域は、作用において無明の領域と同等ではありません。
無明の領域は他の四つの領域とは異なり、ブッダの位で、ブッダの悟りの智慧によって断滅されるのです。 なぜでしょうか。
阿羅漢と縁覚は、四つの領域を断滅しますが、彼らは自在な力を得ていず、悟りも完成していないために、彼らの清浄というものは、不完全であるからです。
『不完全である彼らの清浄』とは、無明の領域によるのです。
世尊よ。
阿羅漢、縁覚、及び最後の身体を有する菩薩は、無明の領域がもたらす障害によって多くの事象が存在することを知らず、気づくこともないのです。
彼らは気がついていないので、究極的に断滅すべきものを断滅することができません。
彼らは[すべての煩悩を]断滅していないので、彼らの解脱は『まだ残りのある解脱』であり、『すべての過ちからの解脱』ではありません。
彼らには『まだ[浄化を行うべき]残りのある清浄』はありますが、完全な清浄はありません。 【220b】
彼らは『まだ[達成すべき]残りのある功徳を実現』しましたが、それは完全な功徳ではありません。
彼らは、まだ残りのある解脱、まだ残りのある清浄、まだ残りのある功徳を実現するので、阿羅漢、縁覚、及び菩薩は、まだ残りのある苦を知り、
まだ残りのある苦の滅を達成し、まだ残りのある修行法の実践を行っているのです。
これが、『部分的な涅槃を得ること』です。
部分的な涅槃を得る者達は、『涅槃の境地に向かい』ます。
もしすべての苦を知り、すべての苦の原因を断滅し、すべて[の苦]を完全に消滅させ、すべての修行法を実践すれば、
無常で退廃的な、また無常で苦しみに満ちたこの世俗の世界で、常住の涅槃を得るでしょう。
守護する者のない世俗の世界で、よりどころのない世俗の世界で、守護者となり、よりどころとなるでしょう。 なぜでしょうか。
事象に優劣がないことのゆえに、涅槃の獲得があるからです。 [世尊よ。
すべての事象が平等であることによって、涅槃の達成があるのです。 ]知識の平等のゆえに涅槃を得るのです。 解脱の平等のゆえに涅槃を得るのです。
清浄の平等のゆえに涅槃を得るのです。
涅槃には一つの等しい味わいがあり、それが解脱の味わいなのです。
世尊よ。
もし無明の領域が究極的に断滅されなかったら、一つの等しい味わい、すなわち明らかな解脱の味わいを得ることはありません。 なぜでしょうか。
もし無明の領域が究極的に断滅されなかったら、ガンジス川の砂よりも多い断滅されるべき事象も、究極的に断滅されないからです。
ガンジス川の砂よりも多い獲得すべき事象は究極的に獲得されず、明らかにすべき[事象]も明らかにされることがありません。
このようにして、無明の領域の内部の煩悩の蓄積から、すべての修行法の実践によって断ぜられる煩悩(一切修道断煩悩)と、潜在的な煩悩(住地)の上に生じ、現在に勢力ある煩悩(上煩悩)が生じます。
同様に、心、心を一つの対象に止めること(止)、観察(観)、瞑想(禅)、精神の統一(正受)、巧みな手立て(方便)、智慧(智)、結果(果)、
獲得(得)、力、恐れをもたないこと(無畏)などにも上煩悩が生じます。
これらはすべて顕在的な煩悩であり、ガンジス川の砂より多いのですが、如来の悟りの智慧によって断滅されます。
これらすべての煩悩は、無明の領域によるものです。
すべての顕在的な煩悩は、無明の領域を原因として活動を始めます。
世尊よ。 顕在的な煩悩と共に、心とその様々な作用は瞬間的に対応して生じます。
世尊よ。
心は無始の無明とは[同じようには]対応しません。
世尊よ。
ガンジス川の砂よりも多い、断滅されるべきすべての事象は、如来の悟りの智慧によって断滅されますが、それらの事象は、無明の領域に支えられ、維持されています。
たとえば、すべての種子は大地をよりどころとして、それを養分とし、発育しますが、もしその大地が破壊されれば、その種子もまた破壊されます。
同様に、如来の悟りの智慧によって断滅すべき、ガンジス川の砂よりも多いすべての事象は、無明の領域をよりどころとし、それを養分とし、発達するのです。
もし無明の領域が断滅されれば、如来の悟りの智慧によって断滅されるべき、ガンジス川の砂よりも多い事象は断滅されるでしょう。 【220c】
もしすべての煩悩と付随的な煩悩が断滅されれば、ガンジス川の砂よりも多いすべての事象は、それらを遮られることなく洞察する如来によって、断滅されるでしょう。
一切を知る智慧はすべての過ちを離れ、法王、法主のすべての功徳を得、自在な力を得、すべての事象から自由な位に登ります。
世尊・応供・正遍知は師子吼します。
完全に生を尽くし、『聖なる実践は成し遂げられ』『なすべきことをなし終え、』そして『再び生を受けない』ということが、今に至るまで、師子吼を用いて、
その完全な意味で、説かれてきたのです。
世尊よ。 再び生を受けない知識(不受後有智)には二種あります。
第一は、如来の知識です。
この上ない力によって、四種の悪魔(煩悩魔・五陰魔・死魔・天魔)を征服し、すべての世俗的な世界に出現し、すべての生き物から尊崇されます。
彼らははかりしれない法身、すべての知識の剣、およびすべての物事において遮られることのない自在さをそなえます。
この位に至ると、さらに上位の行為や、得べき事柄は全くありません。 彼らは十の荘厳な[知識の]力(十力。
仏に特有の十種の力)を持ち、最高の、並ぶ者なき、勇敢な位に登るのです。
一切を洞察し、遮られることのない知識によって、彼らは他に頼ることなく理解します。
この再び生を受けない知識が、師子吼なのです。
世尊よ。 第二は阿羅漢と縁覚の知識です。
彼らは死と生に対する恐怖を乗り越えると、次第に解脱の幸福を感じ、『私は生と死に対する恐怖を克服したので、もはや死と生がもたらす苦を経験することはない』と考えます。
世尊よ。
阿羅漢と縁覚は瞑想する際、再び生を受け入れず、最高の安息の場所である涅槃を観察するのです。
世尊よ。
初めてその[涅槃の]境地を得た者は、法に無知ではなく、また他に依存してそれを得たわけでもありません。
彼らはまた、[自身の努力によって]得た境地にはまだ残りがあり、当然のこととして、最高の、完全な悟りを得るだろうと知っています。
なぜでしょうか。 声聞乗と縁覚乗は、大乗に含まれているからです。 大乗とは仏乗です。
それゆえに、これら三乗はすなわち一乗なのです。
一乗を得る者は、最高の完全な悟りを得ます。
最高の完全な悟りは、涅槃の境地です。 涅槃の境地とは如来の法身です。 究極の法身を得ることは、究極の一乗[に至ること]です。
如来は法身と異なりません。 如来は法身と同義です。 もし究極の法身を得れば、それは究極の一乗です。
究極[の一乗]とは、際限がなく、断絶しないということです。
世尊よ。 如来は時の際限を超えています。 如来・応供・正遍知は、永遠の未来にわたって存在し続けるのです。
如来には際限はありません。 その大いなる慈悲もまた際限がなく、平安と安楽を世俗的な世界にもたらします。
その際限のない大いなる慈悲は、際限のない平安と安楽を世俗的な世界にもたらします。 【221a】
このように説明すれば、如来を巧みに言い表したといえます。
また、無尽蔵の法であり、永遠に存在し続ける法であり、全ての世俗的な世界のよりどころである、と説明すれば、如来を巧みに言い表したといえます。
それゆえに、まだ救済がなされていない世俗的な世界、よりどころのない世俗的な世界において、永遠の未来にわたって存在し、無尽蔵のよりどころ、
常住のよりどころとなるのが、如来・応供・正遍知なのです。
法とは一乗道の教えです。 教団は三乗の人々の集まりです。
これら二つのよりどころは、完全なよりどころではありません。 それらは『部分的なよりどころ』といわれます。 なぜでしょうか。
一乗道の法とは、究極的な法身を得ることを説くものであり、それ以上にさらに一乗の法を説くことはないのです。
教団、すなわち三乗の人々の集いは、恐怖を抱いています。
彼らは如来をよりどころとし、恐怖から脱出することを求め、修学して、最高の完全な悟りに向かいます。
それゆえに、これら二つのよりどころは、究極的なよりどころではなく、限定的なよりどころです。
もし如来によって、力をもって抑えとどめられた者達がいたとすると、彼らは如来をよりどころとし、法が浸透してくるように感じ、
信頼と幸福感を抱き、そして法と教団をよりどころとすることになるでしょう。
[しかし]これら二つは、実際はよりどころではありません。 彼らは如来をよりどころとしたからです。
最高の真理をよりどころとするのは、如来をよりどころとすることなのです。
これら二つのよりどころは、最高の真理としては、如来をよりどころとすることに他なりません。 なぜでしょうか。
如来は他の二つのよりどころと異ならないからです。 すなわち、如来は三つのよりどころです。 なぜでしょうか。 一乗道を説くからです。
四つの恐れなき状態(四無畏、正等覚無畏・漏永尽無畏・説障法無畏・説出道無畏)を完成させた如来は、師子吼によって教え導く御方です。
如来は、人々の資質や能力に応じて、巧みな手立てを用いて教化します。 これが大乗であり、そこに三乗はありません。 三乗は一乗に入って行きます。
一乗こそが最高の教えなのです。」
第6章 無限に聖なる真理
「
世尊よ。 声聞と縁覚は、まず、潜在的な[煩悩]を滅する第一の知識を用いて、聖なる真理を観察します。
その知識とは、四つの智慧のうちの一つであり、彼らはそれを用いて[苦の原因、すなわち、四つの潜在的な煩悩を]断じ、[苦を]知り、
[正しい道に従って]善行を行い、[苦の滅を]悟ります。
彼らは、四つ[の聖なる真理](四諦。 苦聖諦・集聖諦・滅聖諦・道聖諦)をよく理解します。
世尊よ。
彼らは、最高の超越的な智慧を持たず、段階的に四つの智慧を得、四つの状態(すなわち、四つの聖なる真理)に到達するのです。
段階的に到達するのではない智慧こそが、最高の超越的な智慧です。
世尊よ。 最高の智慧はダイヤモンドのようなものです。
世尊よ。 声聞と縁覚は無始の無明を断滅しません。
聖なる真理に関する彼らの初歩的な智慧は最高の智慧では[ありません]。
世尊よ。
彼らは二種の聖なる真理に関する智慧を持たないので、潜在的な[煩悩]を断滅する[にとどまります]。
世尊よ。
如来・応供・正遍知こそは、全ての声聞と縁覚の境地を超えた存在なのです。
空についてのはかりしれない智慧が、全ての煩悩の蔵を断滅します。
世尊よ。 全ての煩悩の蔵を断滅する究極の智慧が、最高の智慧と呼ばれます。
聖なる真理に関する初歩的な智慧は、最高の智慧ではなく、最高の、完成された悟りへと向かってゆく智慧なのです。 【221b】
世尊よ。 『聖なる』という意味は、すべての声聞と縁覚を指すものではありません。
声聞と縁覚は、限定的な功徳、『部分的な』功徳を成し遂げているために、『聖なる』と呼ばれます。
『聖なる真理』とは、声聞と縁覚の真理ではなく、彼らの功徳でもありません。
世尊よ。 これらの真理は、そもそも如来・応供・正遍知が知るものです。
その後、無明に満ちた世俗的な世界のために、如来は姿を現し、教えを説きます。 それが、『聖なる真理』というものです。」
第7章 如来蔵
「『聖なる真理』には深遠な意義があります。
それは、極めてとらえがたく、知ることが難しく、認識や測定の及ぶ境地ではありません。
智慧を持つ人々によって知られるものであり、すべての世俗的な世界では、信じられないものです。
なぜでしょうか。
この[聖なる真理の深遠な意味]は、もっとも深遠な如来蔵を説き明かすからです。 如来蔵は、如来の境地であり、声聞と縁覚は知ることができません。
如来蔵は聖なる真理の意味を説き明かします。
如来蔵がたいへんに深遠であるが故に、聖なる真理を説き明かすこともまたたいへんに深遠であり、きわめてとらえがたく、知ることが難しく、認識や測定の及ぶ境地ではありません。
智慧を持つ人々によって知られるものであり、すべての世俗的な世界にとっては、想像も及ばないものなのです。」
第8章 法身
「もしも無数の煩悩の蔵に覆い隠された如来蔵の存在に疑いを持たないならば、無数の煩悩の蔵を超越する法身にも疑いを持つことはないでしょう。
如来蔵、如来の法身、はかりしれないブッダの境地、及び巧みな手立てを説示することについて、心に疑いを持たない者は、二種の聖なる真理を信じ、理解するのです。
このように、知りがたく、理解しがたいのは、二種の聖なる真理の意味です。 その意味とはどのようなものでしょうか。
それは、『他による』聖なる真理(作聖諦)、『他によらない』聖なる真理(無作聖諦)と呼ばれます。
『他による』聖なる真理とは、『有限な』(有量)四つの聖なる真理です。 なぜでしょうか。
他に依存する者は、すべての苦を知り、全ての苦の原因を断滅し、苦の滅を悟り、全ての修行法を実践することができないからです。
それゆえに、世尊よ。
生死には『身体による』生死(有為生死)と『身体によらない』生死(無為生死)があり、涅槃にも同じように、[他によるものと他によらないもの、]
まだ残りがある(有余)[涅槃]と、もう残りのない(無余)[涅槃]があるのです。
『他によらない』聖なる真理は、『無限な』(無量)四つの聖なる真理です。 なぜでしょうか。
それ自身の力によって[無限な聖なる真理を知る者は]すべての苦を知り、全ての苦の原因を断滅し、苦の滅を悟り、
全ての修行法を実践することができるからです。
そこで、これらは、八つの聖なる真理ということになります。
如来は四つの[他による]聖なる真理を、[巧みな手立てとして]説示します。 【221c】
このように、四つの『他によらない』聖なる真理は、如来・応供・正遍知によってのみ極められるのであり、阿羅漢と縁覚によっては極められません。
なぜでしょうか。 事象には劣った位のもの、中間の位のもの、優れた位のものがないからこそ、涅槃を得ることができるからです。 なぜでしょうか。
四つの他によって作られない聖なる真理は、如来・応供・正遍知こそが極めます。
全ての如来・応供・正遍知が、全ての未来の苦を知り、過去より蓄積されてきたすべての煩悩と、現在に勢力ある煩悩と、
それらの原因を断じ、[三乗(の行者)の]心によって作られる身体(三種意生身)がそなえる全ての構成要素を消し去り、
あらゆる苦を滅するからです。
世尊よ。 苦の滅とは、法の破壊ではありません。
『苦の滅』とは、如来の法身が、無始の過去から存在し、他によらず、生起せず、
尽きることなく、破壊されることがなく、常住であり、本来的に清浄(自性清浄)であり、すべての煩悩の蔵を離れていることを意味します。
世尊よ。
法身は、ガンジス川の砂よりも多く、はかりしれないブッダの法と離れたものではなく、また切り離されるということはなく、異なるということがないのです。
世尊よ。
この如来の法身が如来蔵であり、それは煩悩の蔵と切り離すことができないのです。」
第9章 根源的な真理─空の意義─
「
世尊よ。 如来蔵の智慧とは、如来の空の智慧です。
世尊よ。
如来蔵は、もともと、すべての阿羅漢、縁覚や、力のある菩薩にすら、見えず、得ることもできません。
世尊よ。 如来蔵には二種の空に関する智慧があります。
空である如来蔵は、すべての煩悩蔵から離れ、脱していて、それらとは異なるものです。
不空である如来蔵は、ガンジス川の砂よりも多く、はかりしれない如来の法から離れず、脱することもなく、異なるものではありません。
世尊よ。 多くの偉大な声聞達は、この二種の空に関する智慧について、如来を信ずることはできます。
すべての阿羅漢と縁覚は、彼らの空に関する知識のゆえに、四つの誤った状態に置かれています。
したがって、阿羅漢と縁覚は、もともと[如来蔵の智慧を]見ることも、得ることもないのです。
すべての苦の滅は、すべての煩悩を破し、すべての苦を滅するための修行法を実践するブッダによってのみ、達成されるのです。」
第10章 唯一の聖なる真理
「
世尊よ。 これら四つの聖なる真理の中で、三つは無常であり、一つは常住です。 なぜでしょうか。
[四つの]真理のうち、三つは他による(有為)ものだからです。
『他による』ものは無常であり、『無常』であるものは虚偽であり、本質的に人を惑わします。
『虚偽であり、本質的に人を惑わす』ものは、真実ではなく、無常であり、よりどころにはなりません。
したがって、これら[三つ]の聖なる真理、すなわち『苦があり』、『苦の原因があり』、『正しい修行法がある』、というのは、最高の真理ではありません。
なぜなら、それらは常住ではなく、よりどころでもないからです。」
第11章 唯一のよりどころ 【222a】
「この唯一の聖なる真理、すなわち『苦の滅』は、他によるということから離れています。 『他によるということから離れる』ものは、常住です。
『常住』であるものは虚偽でなく、本質的に人を惑わしません。
『虚偽でなく、本質的に人を惑わさない』ものは、真実であり、常住であり、よりどころになります。
したがって、[苦の]滅という聖なる真理は、最高の真理なのです。」
第12章 誤った真理
「[苦の]滅という聖なる真理は、はかりしれないものであり、生き物の認識の対象であることを超越しています。
これはまた、阿羅漢と縁覚の知るところでもありません。
それはたとえば、生まれながらの盲人が、ものの姿を見ることができず、生まれて七日の赤子が、太陽を見ることができないようなものです。
同様に、苦の滅という真理は、平凡な人の認識の対象に属さず、二乗の知るところでもありません。 平凡な人の認識とは、二つの誤った見方です。
すべての阿羅漢と縁覚の智慧は、[平凡な人と比較すれば]清浄なものです。
『偏狭な見方』とは、五つの精神的・物質的な構成要素の中に実体的な自己が存在するという思い違いに、平凡な人が固執することです。
それは、二つの『真理に相反する』見解の原因となります。 すなわち、常住主義と虚無主義です。
もしも作られたものが無常であるとみなすならば、これは虚無主義であり、正しくない見解です。
もしも涅槃が常住であるとみなすならば、これは常住主義であり、正しくない見解です。
思い違いによって、これらの見解が生じるのです。
身体の中の、識別する能力をもつ感覚器官では、現在の一瞬間に、事象の破壊を知覚することがあります。
継続するものとして事象を見ることができないために、思い違いから彼らは虚無主義に陥ります。
継続して存在するものを、瞬間ごとに認識するということを理解せず、知識としても持たない無知な人は、思い違いから常住主義に陥ります。
これらの主義によって、彼らは極度に不適当な状態を区別し、維持します。
愚かな思い違いのゆえに、彼らは、真理に相反する意思と見解、すなわち、虚無主義と常住主義に固執するのです。
世尊よ。 生き物は、個々の身体を構成する五つの精神的・物質的要素によって、誤った考えを持ちます。
無常は常住とみなされ、苦は幸福とみなされます。 実体のない自己は実体的な自己とみなされ、汚れが清浄とみなされます。
すべての阿羅漢と縁覚の知識は、本来的に、如来の法身も、如来のはかりしれない知識も理解することがありません
もしブッダの言葉を信ずる者がいれば、その者は常住、幸福、自己、清浄という思想を持つでしょう。
これらは真理に相反する見解ではなく、正しい見解です。 なぜでしょうか。
如来の法身は、常住の完成、幸福の完成、実体的な自己の完成、清浄の完成だからです。
ブッダの法身をこのように見る者は、正しく見る者と言われます。 正しく見る者は、ブッダの真実の息子であり、娘です。 彼らはブッダの言葉から生まれ、真実の法から生まれ、そして法による教化から生まれた者であり、法の功徳を得る者達です。
世尊よ。 清浄な智慧とは、すべての阿羅漢と縁覚が持つ智慧が完成したものです。
この清浄な智慧は、清浄な智慧とは呼ばれますが、[苦の]滅の[他により聖なる]真理についていうならば、[他によらない智慧の]境地には達していません。
もちろん、四つの基礎的な真理(すなわち、四つの聖なる真理)に関する[初心者が学習する]智慧にも、同じ[他によらない智慧の境地には属さないという]ことがいえます。
なぜでしょうか。 三乗の実践の初歩の段階でも、法に無知ではないからです。 【222b】 彼らのやり方で、彼らは[悟りを]理解し、獲得します。
ブッダは、彼らの救済を目的として、四つの基礎的な真理を説いたからです。
世尊よ。
これら四つの基礎的な真理は世俗的な世界の法です。
世尊よ。
ある一つのよりどころが、すべてのよりどころの上にあります。
それは超越的な、最高のよりどころであり、すなわち、[苦の]滅という真理です。」
第13章 本来的な清浄(自性清浄)
「
世尊よ。
生と死の繰り返し(輪廻)は、如来蔵によるものです。
如来蔵が、[生と死の繰り返しの]本初であり、不可知とされるからです。
世尊よ。
『如来蔵』が生と死の繰り返しであると説明するのは、適切です。
世尊よ。
生と死の繰り返しとは、感覚器官と、続いて起こるべき、まだ経験されない感覚(器官)の消滅です。
これが生と死の繰り返しと呼ばれます。
世尊よ。
生と死という、これら二つの事象は、如来蔵に他なりません。
世俗的な世界では、慣習として、『生がある』、『死がある』と言います。 『死』は諸感覚器官が消滅することです。
『生』は新たな諸感覚器官が生起することです。
如来蔵(それ自体)には、生も死もありません。
如来蔵は、他によるあり方(有為相)から離れています。 如来蔵は常住で不変です。
したがって、如来蔵はよりどころであり、支えとなり、基礎をなすものです。
世尊よ。 如来蔵は、はかりしれないブッダの法から、離れたものではなく、断絶することなく、切り離されることなく、異なるものでもありません。
世尊よ。
他による事象(有為法)はブッダの法とは断絶し、離れていて、異なるものですが、それらの事象のよりどころであり、支えであり、基礎をなすもの[もまた]、如来蔵です。
世尊よ。
もし如来蔵がなかったら、苦を厭い離れたいという思いも、涅槃への希求もないでしょう。
なぜでしょうか。
七つの[心理的な]事象─六つの[感覚の]認識と、[それらと同時に起こる]心理的な事象への知識は、ほんの一瞬も継続せず、苦の印象を刻みこみません。
それゆえに、苦を厭い離れたいという思いも、涅槃への希求も存在し得ないからです。
世尊よ。
如来蔵は、それより先に存在するものはなく、生起することがなく、破壊されず、苦を受け、苦を厭い離れたいという思いを持ち、
涅槃への希求を持っています。
世尊よ。
如来蔵は実体的な自己ではなく、生き物でもなく、霊魂でもなく、人でもありません。
如来蔵は、身体が実体的に存在するという信仰に堕する者たちや、真理に相反する見解を持つ人々や、空に困惑する人々の境地ではないのです。
世尊よ。 如来蔵は法の蔵であり、法身の蔵であり、世俗を超越する蔵であり、本来的に清浄な蔵です。
この本来的に清浄な如来蔵は、外部から心に付着する煩悩(客塵煩悩)と、他の現在に勢力ある煩悩(上煩悩)に汚されることのない、如来のはかりしれない境地です。
なぜでしょうか。 善い心は、瞬間的に存在し、煩悩に汚されません。 悪い心もまた、瞬間的に存在し、煩悩に汚されません。
煩悩は心に影響を及ぼしません。 また、心は煩悩に影響を及ぼすことがありません。
では、本来的に他から影響を受けない心は、どのようにして汚されるのでしょうか。
世尊よ。 煩悩は存在し、汚された心も存在します。
本来的に清浄である心に煩悩が存在するという事実は、理解し難いものです。 【222c】
真理の眼と真理の智慧を持ち、法の源泉であり、法を熟知し、真実の法のよりどころであるブッダのみが、この真理を理解することができるのです。」
王妃シュリーマーラーが[本来的に清浄な心にある煩悩を]理解することの難しさを説明すると、ブッダは大きな喜びとともに、彼女を賞賛しました。 「そのとおりです。 そのとおりです。 本来的に清浄である心に煩悩が存在するという事実は、理解するのが困難です。
完全に理解することが困難な二つの問題があります。 本来的に清浄な心と、この[同じ]心が煩悩に汚されているという事実です。
これら二つの問題は、あなたや、大いなる法を完成している菩薩と摩訶薩だけが、聞いて知ることができるのです。
その他の者、すなわち声聞達は、ブッダの言葉をただ信じることができるだけです。」
第14章 如来の真の息子[と娘]
[ブッダはおっしゃいました。 ]
「もし私の弟子達が[初歩の段階の]信仰を持ち、[その後につづいて]さらに増進した信仰を持ったとしたら、
彼らは、その信仰の光に基づいて法の智慧に従い、そして究極の段階に達するでしょう。
『法の智慧に従う』とは、感覚と認識の領域を観察し、根源的に究明すること、因果応報を観察すること、
阿羅漢の眼を観察すること、心が自由であることの幸福と、瞑想の幸福を観察すること、阿羅漢、縁覚、
及び力ある菩薩の超自然的な力を観察することです。
これら五種の観察が完成したとき、それは、私が最終的な涅槃に入り、滅度した後、未来の世代であっても、
[初歩の段階の]信仰を持ち、[その後に続いて]さらに増進した信仰を持ち、その信仰の光に基づいて、
法の智慧に従う私の弟子達は、本来的に清浄な心が煩悩で汚されていたとしても、究極の段階に至るでしょう。
『究極』とは、大乗の修行に至る要因であるということです。 如来への信仰は大いなる利益をもたらします。
私の[法の]深遠な意義を謗ってはいけません。」
王妃シュリーマーラーはブッダに申し上げました。 「
ブッダのお許しがあれば、他にもご説明申し上げたい大利益がございます。」
ブッダはおっしゃいました。
「それではご説明なさい。」
王妃シュリーマーラーはブッダに申し上げました。 「三種の善男子・善女人が、[法の]最も深遠な意義において、[法を]傷つけることなく、大いなる功徳を生み出し、大乗の修行に入ります。
三[種の善男子・善女人]とはなんでしょうか。
それは、
- 1)
最も深遠な法に関する自身の智慧を発達させ、
- 2)
[信仰の光に立脚した]法に従う智慧を発達させ、そして、
- 3)
たとえ完全には最も深遠な法を理解していなくとも、世尊を尊崇する者
のことです。
ブッダのみ知る事柄は、私たちの知りうるところではありません。
これら[述べ来たりました者たち]を、世尊を尊崇する善男子・善女人と呼びます。 彼らだけが、善男子・善女人なのです。」
第15章 シュリーマーラー
[シュリーマーラーは申し上げました。 ]
「その他すべての者は、最も深遠な法の代わりに、虚偽の教えにかたくなに執着し、真実の法に背を向け、様々な外道の腐敗した教えを実践しています。
これらの腐敗した教えは、[法の]王の力と天や竜王の力で征服されるべきです。」 【223a】
王妃シュリーマーラーと従者達は、ブッダに敬礼しました。 するとブッダはおっしゃいました。 「すばらしい。 すばらしい。
王妃シュリーマーラーよ。
最も深遠な法において、巧みな手立てに守られ、法にあらざるものを征服し、法の正しさをよく保っています。
あなたはすでに百千万億のブッダと近づきになり、この[法の]意義を説き明かすことができます。」
その時、世尊はすばらしい光明を放ち、そこに集う人々すべてを照らし出しました。
ブッダの身体は、ターラ樹七本分の高さよりも高く空中に浮き上がり、彼は虚空を歩いて舎衛国まで戻りました。
王妃シュリーマーラーと従者達は合掌し、片時も身じろぎせず、ひたむきにブッダをお見送りしました。 [ブッダが]視界から去ると、彼らは口々に賛美しました。
誰もが如来の功徳をほめたたえ、深く心に留めました。
城市の中に戻ると、[彼女の夫である]ミトラヤシャス王(友称王)に対して、王妃シュリーマーラーは大乗を賞賛しました。
城市に住む七歳以上の女性は皆、大乗を信仰するようになりました。 ミトラヤシャス王も、大乗を信仰するようになりました。
七歳以上の男性も皆、大乗を信仰するようになりました。 そうして、この国の民すべてが、大乗を信仰するようになったのです。
さて、世尊は祇園精舎に入り、長老のアーナンダ(阿難)に語りかけ、天の王シャクラ(天帝釈、カウシカとも)を心に念じました。 瞬時に、シャクラは従者を引き連れ、ブッダの御前に姿を現しました。
世尊は天の王シャクラと長老アーナンダに向かって、この経典を詳しく説きました。 説き終わると、シャクラにおっしゃいました。 「あなたはこの経典を受持し、読誦すべきです。
カウシカよ。
善男子・善女人は、ガンジス川の砂と同じくらい無数の劫の間、悟りへの実践と六種の完成のための実践に励んでいます。
もしも彼ら善男子・善女人がこの経典を学び、読み、受持すれば、その福徳はそれよりもさらに広大になるでしょう。
この経典を説く人[の利益]がどれだけ大きいかということは、もはやいうまでもありません。
それゆえに、カウシカよ。
あなたはこの経典を読み、三十三天(忉利天)の者達のために、その意味を明らかにし、詳しく説明しなければなりません。」
それから、ブッダはアーナンダにおっしゃいました。
「あなたもまた、この経典を受持し、読誦しなければなりません。
四衆のために、あなたはこの経典を詳しく説き明かさなければなりません。」
天の王シャクラは、ブッダに尋ね申し上げました。
「
世尊よ。
この経典の名は何というのでしょうか。 どのように[その教えを]信奉すべきでしょうか。」
ブッダはシャクラ王におっしゃいました。 「この経典には、はかりしれない、無限の功徳があります。
すべての声聞と縁覚が、[それらの功徳を]観察し尽くすことも、すべてを知ることもできないほどです。
カウシカよ。
あなたは、この経典のとらえがたく深遠な大いなる功徳を、すべて知るべきです。 さあ、あなたのために、簡潔に経典の名を説きましょう。
よく聞きなさい、よく聞きなさい。 そして、これ[経典]を記憶しなさい。」
天の王シャクラと長老アーナンダはブッダに申し上げました。
「すばらしいことです。
世尊よ。 承知いたしました。 私達は仰せのままにいたします。」
ブッダはおっしゃいました。 「この経典は[第1章では]如来の真実の法の最高の功徳を賞賛しています。 このように受持しなさい。
[第2章では]十の自誓の願を説いています。 このように受持しなさい。 【223b】
[第3章では]すべての誓願を包摂する大いなる誓願を説いています。 このように受持しなさい。
[第4章では]はかりしれない真実の法を受け入れることを説いています。 このように受持しなさい。 [第5章では]一乗に入ることを説いています。
このように受持しなさい。 [第6章では]無限の聖なる真理を説いています。 このように受持しなさい。 [第7章では]如来蔵を説いています。
このように受持しなさい。 [第8章では]法身を説いています。 このように受持しなさい。
[第9章では]根源的な真理、すなわち空の意義を説いています。 このように受持しなさい。 [第10章では]唯一の[聖なる]真理を説いています。
このように受持しなさい。 [第11章では]常住で静寂な、ただ一つのよりどころについて説いています。 このように受持しなさい。
[第12章では]誤った真理について説いています。 このように受持しなさい。
[第13章では]本来的に清浄な心が[煩悩によって]変化させられることについて説いています。 このように受持しなさい。
[第14章では]如来の真実の息子[と娘]について説いています。 このように受持しなさい。
王妃シュリーマーラーの師子吼という経典を教授しました。
このように受持しなさい。
また、カウシカよ。 この経典の教えはすべての疑いを断滅します。
[この経典の]完全な意義について確信を抱き、一乗の道に入りなさい。
カウシカよ。
今日、この経典、『王妃シュリーマーラーの師子吼の経典』をあなたに授けました。
法が存続する限り、[この経典を]受持し、読み、意義を詳細に明らかにし、解説しなさい。」
シャクラ王はブッダに申し上げました。 「すばらしいことです。
世尊よ。
私たちは謹んであなた様の教えを受けます。」 そうして、天の王シャクラと、長老アーナンダと、そこに集っていたすべての天、阿修羅、乾闥婆とその他の者達は、ブッダの教えを聞いて歓喜し、誠実に、尊崇しながら、それを実践しました。
王妃シュリーマーラーの師子吼の経典を終わる。
シュリーマーラー
勝鬘
ブッダ
世尊
https://viaf.org/viaf/259214648
シャクラ
カウシカ
アーナンダ
https://viaf.org/viaf/232150323884209972416
プラセーナジット
波斯匿王
マッリカー
末利夫人